フィンセント・ファン・ゴッホ
《ひまわり》
ファン・ゴッホの代表作のひとつ。1888年2月、ファン・ゴッホは南フランスのアルルに向けてパリを出発する。彼はそこで画家仲間との共同生活を計画し、指導者として敬愛する画家ポール・ゴーギャンを招待した。《ひまわり》はゴーギャンの到着を待ちながら、その部屋を飾るために描かれたものである。当館が収蔵する《ひまわり》は、この8月に描かれた1点目の「黄色い背景のひまわり」(ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵)をもとに、実際にファン・ゴッホがゴーギャンと共同生活を送っていた1888年11月下旬から12月上旬頃に描かれたと考えられている。基本的な色や構図はロンドンにある作品と同じだが、タッチや色調は異なっており、ファン・ゴッホが単なる複製を描くのではなく、考察を重ねながら本作に取り組んだことがうかがえる。
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853年~1890年)
オランダの牧師の家に生まれる。27歳で画家になる決意を固め、亡くなるまでの10年間に、素描も含め、2000点以上の作品を手がける。農民の生活を主題にした初期の作品から、印象派や新印象派の影響を受けたパリ時代の作品を経て、大胆な筆致と強烈な色彩という独自のスタイルを確立するに至る。ゴーギャン、セザンヌとならぶポスト印象派を代表する画家に位置づけられ、表現主義やフォーヴィスムなど、20世紀の芸術に大きな影響をあたえた。
年譜
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18530歳
3月30日 オランダ南部のズンデルトに生まれる。
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186916歳
美術商グーピル商会のデン・ハーグ支店で働き始める。
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187320歳
グーピル商会のロンドン支店に転勤、一時、パリ支店に勤務。
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187522歳
パリ支店に転勤。この頃から聖書に没頭するようになる。
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187623歳
グーピル商会を解雇され、オランダに戻る。その後、イギリスで教師を勤める。
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187724歳
牧師を目指すが1年で断念。
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187825歳
ベルギーの伝道師養成学校で学ぶが、資格を得られず。
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187926歳
ベルギー南部の炭鉱ボリナージュで、臨時説教師として伝導活動に従事。常軌を逸した伝導を理由に、伝導委員会から活動を止められる。
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188027歳
画家になることを決意。ベルギーのブリュッセルの美術学校に入学する。
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188128歳
両親のいたオランダのエッテンで素描を描く。夏から翌年にかけて、デン・ハーグで、義理の従兄弟にあたる画家アントン・マウフェの教えを受ける。
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188330歳
オランダ北部のドレンテ地方に滞在した後、ヌエネンにいた両親の元に移る。
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188431歳
1885年まで1年間ヌエネンで農民や農民の生活を主題にした作品を描く。
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188532歳
ベルギーのアントウェルペンに移る。
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188633歳
フランスのパリに移り、モンマルトルのテオのアパルトマンに同居する。
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188835歳
南フランスのアルルに移る。「黄色い家」を借り、画家仲間との共同生活を計画する。10月下旬、ゴーギャンとの共同生活が始まるが、2か月後の12月23日、ゴーギャンと口論の末、自ら左耳を切り取る。アルルの病院に入院する。
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188936歳
入退院を繰り返した後、サン=レミ=ド=プロヴァンスの療養院に移る。
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189037歳
サン=レミからパリ経由で、パリ近郊のオーヴェール=シュル=オワーズに移る。7月27日 オーヴェールの麦畑から、胸部をピストルで撃った状態で下宿先に戻る(自ら撃ったとされる)。翌々日の29日 テオに看取られ死去。享年37。